古史古伝には、現代の医学では解明できない、
健康に関する多くの智慧が隠されています。
長い年月をかけて先人が培ってきた経験と知識には、
人や地球にも優しい自然の摂理に沿った
健康法として注目されています。
『伝承療法』を取り入れ、
健康維持をしてみませんか
こころつくり・ちえつくり
天から授かった『米の信仰』
Vol.3
古来より日本人のアイデンティティと深く結びついてきた。
日、水、土、の恩恵は、かけがえのない存在『米』
日本の古書『古事記』では、天孫降臨によって天照大神からさずかった稲で 米が作られ そして日本の礎を築いたと神話で、語られ日本国の始まりになった。
Vol.3
『米の信仰』
日本に、どのように、『米』が、浸透していったのか?
縄文時代
到来
vol.1
弥生時代
隆盛
vol.2
古墳時代
信仰
(本編)
奈良時代
伝播
(次回)
平安時代
洗練
鎌倉時代
普及
室町時代
多様化
江戸時代
安定
明治時代
近代化
<古墳時代の米とは>
古墳時代は米が神聖な存在として信仰され、
祭りや儀式で使われた時代。
そして日本人の精神に深く根付いていきました。
古墳時代は、米作りの為の水田の面積が前の弥生時代に 比べると非常に大きくなった時代です。 縄文時代からの狩りと採集のほかに、稲を作ることが普及し、 主食が木の実から『お米』をはじめとする穀物になり、 生活は安定し、あまった米を貯えることもできるようになりました。 また米つくりのためには、知識や統率力のあるリーダーのもと 家族をこえた地域の集団(共同体)で働くことが必要でした。 それを可能にしたのは、はじめて日本列島を統一した大和朝廷の 国家の誕生によって、中国や朝鮮半島から進んだ文化や技術が 伝わってきたからなのです。

この時代になると古代人も私たちと同じように、米に水を加えて 玄米を炊いていたと考えられます。古墳時代の遺跡出土品から、 かまどの強い火で「こしき」と下に水をいれた甕をつかって、 赤飯のおこわようにお米を蒸して食べていましたことわかりました。 土器のにおいがつかなく、おいしくなったそうです。
<なぜ米は信仰の根源になったのか>

古墳時代の米は、
当時の社会にとって生命と豊かさの象徴だったので信仰の対象となっていきました。
米作りは人々の生活の基盤であり、食料の確保に不可欠でした。
米の収穫量は、人々の生死を左右するほど重要でした。
そのため、人々は豊作を祈り、豊作への感謝、を表すために、米を神聖なものとして崇めるようになり
人々の暮らしと密接に結びついていた。さらに大陸からの影響を受け、より複雑なものへと発展した時代です。
1.『食料としての重要性として、』
米は日々の食の中心であり、生命を維持する上で最も重要な作物でした。 豊かさの象徴として、米がたくさん収穫されることは、共同体の繁栄を意味しました。
2.『社会的な意味合として、』
当時の権力者たちは、米を支配することで人々の生活を管理し、自らの権威を示しました。 これらの理由から、米は単なる食料以上の意味を持ち、信仰の対象となっていったのです。 米を神に捧げる儀式や、米作りの過程に合わせた様々な祭りが生まれたのも、このためです。
3.『古墳時代の信仰とは、』
特定の統一された教義や神殿を持たない、 自然や祖先を崇拝する多神教的な信仰でした。これは、後の神道の原型ともいえるものです。

自然崇拝(アニミズム)
山、森、川、岩、木など、自然界のあらゆるものに神や精霊が宿ると 考えられていました。特に、農耕に不可欠な水や、その水源となる山は重要な信仰の対象でした。 昔から「お米には7人の神様が宿っている」と言われていることも古来からのアニミズム信仰が根源です。
祖先崇拝
亡くなった豪族や有力者の霊は、子孫を守る氏神として崇められました。 巨大な古墳を築造することは、被葬者の威信を示すだけでなく、その魂を鎮め、共同体の守護神として 祀るための儀式でもありました。 呪術的・司祭的儀礼:吉凶を占う太占(ふとまに)(鹿の骨を焼いて亀裂の入り方で占う)や、 熱湯に手を入れて真偽を判断する盟神探湯(くがたち)といった呪術的な儀式が行われることもあり、 これらの儀式は、現代の神道にも見られる禊(みそぎ)や祓(はらい)のルーツと考えられています。
独特な祭祀具を使用
鏡、剣、玉といった三種の神器に共通する品々が、祭祀で用いられました。これらは、 神の依り代(よりしろ)として神聖視されたほか、豪族の権威を象徴するものでもありました。 これらの信仰は、主に豪族が中心となって行われる政治的な祭祀と、集落の人々が行う共同体的な 祭祀の二つの側面を持っていました。 特に、豪族の祭祀は、権力の正当性を高める上で重要な役割を果たしました。
<古墳時代の祭祀とはどんなものだったのか>
古墳時代の祭祀はどのようにやっていたのか出土品から下記のようなことが考えられてます。 最高司祭者(巫女)が、祖霊からお香げを授かるために榊を頭や身体にまき、手に小笹を持って、 琴の音に合わせて神がかりしようとしています。巫女の発するお告けを、直3分け、玉える人が、控えています。 鏡や玉・剣は、巫女が、祖霊と交するための祭具です

吉野ヶ里遺跡資料展示物

3世紀〜4世紀古墳時代前期
纏向遺跡出土品
出典:桜井市埋蔵文化財センター資料
纏向遺跡から出土した『木製仮面』
祭祀遺物が出土する土(3世紀前半頃の土から出土) 土器類や状製品、朱塗りの店の破片や金柄など 多数の木製品と共に木製仮面が出土しました。 この木製仮面は、長さ約26cm、幅約21.5Cmを測り、 丁鹿人間の顔を覆い服すことかできる大きさを持っています。 アカガシ亜属製の広鉄を伝用して作られたもので、 眉毛は線刻により表現されており、その周辺にはわずかに 赤色顔料が付着していました。紐を通す孔などは無く 手に持って使用したと思われます。 この木製仮面は、他の多くの木製製品とともに出土しました。 このことから土木祭祀の一場面で、仮面が用いられていたことを 示しています。農具である広鉄を転用していることを考えると、 その祭祀は農耕に関連するものであったのかもしれません。 纏向遺跡でおこなわれた祭祀の形態は、依然として不明な 部分が多く今後の研究に新たな視点を与えてくれる貴重な資料なのです。

出典:桜井市立埋蔵文化センター展示品

古墳時代後期頃6世紀の鉄製馬具(風呂坊古墳出土品)
出典:桜井市立埋蔵文化センター展示品
稲作が盛んになった痕跡
渡来人によって鉄具も持ち込まれ鉄農具も使われように
なり田んぼの生産力が上がり、食糧が安定して収穫できように
なると社会が発達して各地に豪族が生まれ、領土争いなど
が起こり、戦乱の時代になっていきます。
古墳時代の水田に牛の足跡が残っていることから、家畜を利用
した農作業が始まり、それにともなって馬鍬(まぐわ・マンガ)
や中国の華北地方の犂(すき=カラスキ、長床犂)も
伝えられたようです。
また、九州北部を中心に鉄製の穂摘具(ほづみぐ)や
鉄鎌も出土されてます。
田んぼの痕跡
一方で、当時の人々の脅威となったのが洪水です。
お米が実った田んぼで洪水が起こると、
その後の1年間、食糧が不足します。
そこで豪族たちは鉄器を活用して、灌漑用の溜め池を掘らせ
、水路の整備も広範囲に行いました。
そうして、川からずいぶん離れた
平野や盆地にまで、田んぼが作られるようになったのです。
後に豪族たちはこの土木技術を応用して、古墳を作ります。
やがて、豪族たちの小さな国が統一されて大和朝廷となり、
今の日本の基礎ができたと言われています。
古墳時代人の田んぼに残された足跡

出典:桜井市立埋蔵文化センター展示品
1500年前の古墳時代には、 この場所で私達の祖先が米を作り生活していた 痕跡が確かにあり、間違いなく人が生活していたのです。
<古墳時代の食生活>

米の調理法は、弥生時代には甕で炊いていたが、古墳時代中期になると住居内に作られたカマドの上に
甑(こしき)を載せて、蒸すようになった。また、古墳に供献された土器の中には、ハマグリやウニ、
魚類などの海産物が盛られている場合がある。更に、藤原京の木簡にはワカメを指す「海藻」の文字が
しばしばみられ、海産物も重要な食料となっていた。調味料では、中期に塩の生産が盛んになり、この塩と
大豆を材料として味噌や醬油も造られたと考えられています。
須恵器(すえき)が、食器として普及するのは、古墳後期以降になります。また、須恵器は水をあまりもらさないため、
大甕は水や酒の貯蔵に使われ、稲籾などの穀類の保管にも使用されました。
以上のように、古墳時代の中期以降は、豊富な食材と調理法の革新により、
人々はそれ以前に比べ斬新な食生活を送ることが可能になりました。
鳩山窯跡郡『南比企窯跡群」 東日本最大級の窯跡群は 6世紀初頭から10世紀前半に かけて須恵器すえきや 瓦かわらを生産し、その製品は 南関東に広く流通しました。

須恵器(すえき)は釉薬うわぐすりをかけないで焼いた陶器で、 5世紀に朝鮮半島から伝わった古代の焼き物です。米を蒸したりした道具 特に多く焼かれていたのは、 坏つき・埦わん・ 皿などの食器類、 水や穀物などを貯蔵しておく甕かめ・壷つぼなどです。 この他、寺院で使われた瓦・浄瓶じょうへい (清らかな水を入れる容器)・ 硯すずりといったものも焼かれていました。

鳩山窯跡群はとやまようせきぐんの遺跡から出土した
調理土器と貯蔵土器
古墳時代中期には須恵器で、発酵調味料も作られるようになります。

古墳時代後期の炊飯具かまど
出典:桜井市立埋蔵文化センター展示品

上段:前方後方墳から出土した土器
下段:カマドを持つ竪穴住居跡から出土した土器
出典:吉野ヶ里遺跡 展示物


古墳時代初めになると、南内郭の跡地に前方後方墳や 方形周溝墓がつくられます。なかには、全長40mに及ぶ 九州最大規模の前方後方墳も含まれます。 埋葬施設は、後世の削平により残っていませんでしたが、 首長クラスの墓だったと考えられます。これらの古墳に 葬られた人物が、吉野ヶ里遺跡に居住していた有力者か どうかは、解明されていませんが、古墳時代後期の 竪穴住居には、屋内の壁際にカマドを設置したものが 多くみられます。このカマドの出現は、 渡来人の影響により生活様式が変化したことを示しています。

AIよりイメージ画像作成

東日本最大の『南比企窯跡郡』から出土
古墳時代の須恵器
出典:鳩山多世代活動交流センター展示品

古墳時代 (250年頃~590年頃) の主な調味料は、塩、醤(ひしお) 、酢でした。 特に塩は、食材の保存に不可欠で、大豆と組み合わせて味噌や醤油の原型となる「醤」 も作られました。また、中国から伝来した酢も使われ始めました。

供物の倉 吉野ヶ里遺跡展示資料

酒作りの家 吉野ヶ里遺跡展示資料

塩作りAI作成イメージ

酒作りAI作成イメージ

米倉 吉野ヶ里遺跡展示資料

酢の保存AI作成イメージ
