古史古伝には、現代の医学では解明できない、
健康に関する多くの智慧が隠されています。
長い年月をかけて先人が培ってきた経験と知識には、
人や地球にも優しい自然の摂理に沿った
健康法として注目されています。
『伝承療法』を取り入れ、
健康維持をしてみませんか
こころつくり・ちえつくり
天から授かった『米の荘園』
Vol.5
古来より日本人のアイデンティティと深く結びついてきた。
日、水、土、の恩恵は、かけがえのない存在『米』
日本の古書『古事記』では、天孫降臨によって天照大神からさずかった稲で 米が作られ そして日本の礎を築いたと神話で、語られ日本国の始まりになった。
Vol.5
『米の荘園』
日本に、どのように、『米』が、浸透していったのか?
縄文時代
到来
vol.1
弥生時代
隆盛
vol.2
古墳時代
信仰
vol.3
奈良時代
伝播
vol.4
平安時代
荘園
(本編)
鎌倉時代
普及
室町時代
多様化
江戸時代
安定
明治時代
近代化
<税(年貢)としての米の役割>
『墾田永年私財法』(こんでんえいねんしざいほう)
なぜこのような法律が定められたのか?
朝廷(律令政府)によって、奈良時代(聖武天皇の時代)743年に定められた 『墾田永年私財法』(こんでんえいねんしざいほう)という法律が決定されました。
開墾した土地を永久に私有化することを認めた、
平安時代の荘園制が広がる大きなきっかけとなった法律です。
荒廃した土地の再開墾を促し、国の財政基盤を立て直すこと が目的だった。
1:開墾意欲の低下の解消
この法律の約30年前に「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」という法律がありました。これは、開墾した土地の私有を
「子や孫の代(三代)」までしか認めず、その後は公の土地に戻す、というものでした。
・期限が来れば土地を没収されるため、開墾の労力に見合わないと感じた人々は意欲を失い、
開墾した土地も再び荒れてしまうという問題が起きていました。
2:耕地の拡大と税収の確保
耕作地が減少した結果、国庫(朝廷の財政)に入る税収(田租)が減少し、政府の財政が窮迫しました。
そこで、「開墾した土地は永久に私有してよい」と定めることで、人々(特に財力のある貴族や有力者)の
開墾意欲を最大限に引き出し、国全体の耕地面積を増やそうとしました。
しかし、この「墾田永年私財法」の結果、財力を持つ貴族や寺社が多くの農民を使って大規模な開墾を進め、
私有地をどんどん広げたことで、後に荘園(しょうえん)が爆発的に発達することになります。
平安時代の米の社会と経済はどのようだったのか?
・荘園同士の境界争い(相論)
・荘園領主と国司・公領側との争い
・年貢徴収をめぐる争い(武士の台頭の要因)
米は単なる食料ではなく、富と権力の源泉となり,階級による格差がおこった。
貴族
上級貴族、特に摂関家「藤原」や大寺社「東大寺など」
荘園は税金免除の特権を持っていたため、本来国に納められるはずだった米の多くが
荘園領主である貴族や寺社の収入となり、貴族は基本的に都に住み、荘園から送られてくる
米や特産物を消費し、優雅な生活を送ってました。
荘園のガードマン
(地方の有力者で、実力で米を手に入れた層)
地方の有力な農民(田堵)や豪族が出発点でした。彼らは荘園の荘官(しょうかん)
成立・管理に関わることで、米の取り分を増やしました。
そして、自分たちの米と土地を守るため、武装し、武士団を形成しました。
彼らにとって、米の収穫量は軍事力の源でもありました。
地方の争いを解決したり、都で貴族の警護(侍)を務めたりすることで、徐々に朝廷や貴族から力を認められ、
平安時代末期にはついに政治の実権を握る存在へと成長し武士となります。
平民
(農民)負担の差と支配層への従属
荘園公領制の下、米の生産者である一般の農民(作人)は、最も低い階層に位置し、
米の格差を直接的に実感しました。
荘園であれ公領であれ、米の生産者である農民は、自らの生活に必要な分以外の米を、
すべて支配層(荘園領主や国司)に納める必要があり、最低限の生活を送っていました。
有力農民(田堵)と一般農民の間でも、貧富の差が拡大しました。
米の荘園化は、土地と富を独占する新しい仕組みを生み出し、その富をめぐって あらゆる階層の人々が争い合う、社会の不安定化を招きました。 この構造が、平安時代後期の社会を形作る米をめぐる巨大な経済格差を生み出す要因となりました。 実質米は、「お金」としての価値(現物貨幣)となり公から私の荘園化によって引き起こされ、 そのため争が多発しました。
<平安時代の稲作技術進化は生産性が向上した>
平安時代の稲作は、飛鳥時代に完成した律令制の公地公民の原則が崩壊し、 生産効率と耕作面積の両面で飛躍的な進歩を遂げました。
1. 稲作技術の進化と農地拡大
・荘園拡大と開墾の加速
荘園の拡大により、私的な土地開発(墾田)が活発化。
地方の豪族(後の武士)や寺社による大規模な
開墾と灌漑整備が加速。
・牛馬耕の導入による効率化
牛馬が農耕に導入され始める(牛馬耕の普及)
・肥料の利用の進展
牛馬が農耕に使われるようになったことで、その糞尿を用いた
厩肥の利用が進みました。また、草木を燃やした草木灰や、
草を刈って土に混ぜる刈敷(かりしき)など、肥料の種類と利用法が
発展した。
・鉄製農具の普及
鉄製の農具がさらに普及し、土を深く掘り起こす能力が向上した。
そして新技術と私的な開発により、単位面積あたりの収穫量が
増加しました。
2. 稲品種の多様化
早稲わせ・中稲なかて・晩稲おくての収穫時期の区別できる 品種改良や環境適応による品種分化が行われた 出土した木簡に見られる具体的な品種名(例:畔越、古法師などがあるます) これらを使い分けることで、洪水や日照りなどの気象災害の リスクを分散させ、また、田植えや収穫の農作業を分散させる 目的がありました。農民たちは、毎年収穫量の多かったり、 生育が早かったりする稲の種籾を翌年用に選んで残すという、 自然な選抜を行っていました。
平安時代の稲作は、単に技術的な進歩だけでなく、環境適応や経済的・政治的要因 (年貢の早期確保など)を背景として、稲の品種の多様化が進んだ時代なのです。
<平安時代の米は、神饌(しんせん)の中心だった>
神饌とは
主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の野菜など、神様へお供えされる食事です。
平安時代の儀式や作法を定めた『延喜式』には、米(飯、粥、もち米など)が 様々な祭祀で多量に供進されていたことが記録されています。
神様に捧げられる食物(神饌)の中で、米や米関連の品目(酒を含む)が圧倒的な割合を占めており、 米を頂点とする価値観の体系が国家レベルで成立していたことを示しています。
米は単なる食料ではなく、霊的な力を持つ聖なる食べ物と考えられており、 神様と人とを結びつける媒体として不可欠なものでした。 平安時代の祭祀は、米の収穫と分配を基盤とする社会において、その豊穣と感謝、 そして国家の永続的な安寧を祈る儀礼として機能していました。
神饌(しんせん)としての米はどのようにお供えしていたのか?
祭祀などで神々に供えられる米(神饌)は、単に炊くだけでなく、特別な方法で調製され、様々な形に加工されました。 特に「ハレの日」の食事として、日常の食事とは異なる調理法が用いられました。
1. 蒸した飯(強飯)
強飯(こわいい): うるち米やもち米を水に浸した後、
蒸籠(せいろ)などの調理器具で蒸したものです。
古代・平安時代を通じて、飯を「煮る」調理法が広まる中でも、
祭祀などの特別な儀式(ハレ)の際には、
手間がかかる「蒸す」調理法が重視されました。
神聖で格式高い食べ物とされていました。
新嘗祭などの重要な祭祀では、新米を蒸した強飯が神饌の
中心として捧げられました。
2. 炊いた飯(粥・姫飯)
粥(かゆ): 米に水を加えて煮たものです。
現在のスープ状の「汁粥(しるかゆ)」だけでなく、現在の飯に近い硬さのものを固粥(かたかゆ)または
姫飯(ひめいい)と呼び、これも神饌として用いられました。
七種粥(ななくさがゆ)
平安時代の『延喜式』にも登場するもので、米 、粟(あわ) 黍(きび)稗(ひえ) 豊作を願う農耕儀礼の要素。
蓑(みの)(ムツオレグサなどの穀物の一種とされる)胡麻(ごま)小豆(あずき)赤い色が邪気を払うとされ、
これらの雑穀を混ぜて煮た粥です。豊穣の祈りを込めた「餅がゆ(望がゆ)」とも呼ばれていました。
これらの神饌(しんせん)は、忌火屋殿(いみびやでん)という清浄な場所で、特別な道具を用いて火をおこし(忌火)、 心を尽くした神職によって調理されました。これは、神様に捧げる食物は、穢れのない清らかなものでなければならない という考えに基づいています。 参考:https://www.isejingu.or.jp/about/estate/
平安時代の「七種粥」ななくさがゆ
米、粟、黍などの「七種の穀物」
主に小正月(1月15日宮中で)
五穀豊穣の祈願 無病息災、邪気払い、
その年に豊作を願う意味合いが強く、現代の 「五穀豊穣」の祈りに近いものです。 七種粥(穀物)」の風習は、後に小豆粥 を食べる風習のルーツの一つになったと 考えられています
現代の「七草粥」ななくさがゆ
せり、なずななどの「春の七草」
人日の節句(1月7日)胃腸を休める
中国の「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」 という風習が、日本の「若菜摘み」という 生命力を取り入れる風習と融合し、 平安時代末期から鎌倉時代にかけて成立し、 江戸時代に広まったものです。
3. 加工された米
粢(しとぎ): 生米を水に浸し、それを粉末状にして作ったものです。米粉
熱を加えずに作られることから、非常に神聖な供物とされました。
餅(もち): もち米を蒸して搗(つ)いたもので、神饌として捧げられました。
酒(みき): 米を発酵させて作ったもので、特に新嘗祭では新米で作った白酒(しろき)や、
赤米などを使った黒酒(くろき)が重要な神饌でした。
米粉の揚げ菓子: 唐から伝わった製法で、米の粉を使った餢飳(ぶと)
参考:https://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/buto/buto.html
平安時代中期の辞書である『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)にも「ぶと(餢飳)」の記載があり、 油で煎った餅として記されています。この時代には、すでに神饌として定着していたことがわかります。 春日大社の御鎮座当初から、神饌として御祭礼に現在も神饌としてお供えされているのです。
国立国会図書館デジタルコレクション
和名類聚抄20巻(9)
古典籍資料(貴重書等) その他
源順 撰 那波道圓, 元和3 [1617]
4. 稲の形態

稲穂がついたままの形態(穎稲えいとう)で、豊穣のシンボルとして神前に懸けたり、供えられたりしました。
参考:https://www.isejingu.or.jp/about/estate/
神饌とは、神道において神様に捧げるお食事や飲食物の総称です。神様を人間がもてなし、感謝の気持ちを伝えるとともに、 神様にお供えした後で人間がその「お下がり」をいただく「神人共食(しんじんきょうしょく)」という行為が、 神社の祭りの特徴でもあります。神さまと人が同じものを食し、神さまのお力をいただくこと。 現代の家庭の神棚にも毎日お米、塩、水などをお供えする習わしが今も受け継がれているのです。
米は「生命の糧」であり、「富と権力の源」であり、さらには「神々との結びつきを示す神聖なもの」 という三重の意味を持っていたため、神に捧げる供物(神饌)の中心として最も重要視されました。











